記念フォーラム「世界の中の日本研究」講演要旨 もどる




フォーラムのねらい
山下博司(フォーラム・コーディネーター)

 今年は国際文化研究科が設立されて10年目にあたります。この節目を単なる「祝賀」に用いるのではなく、これまでわれわれが模索してきた研究・教育活動のあり方をふりかえり、真の「国際文化研究」を定義し直して、新たな可能性を展望するための機会にすべきものと考えます。これまでのあり方に検討を加え、進むべき方向を見定めるためには、自己中心的な考えかたを離れ、第三者のそれを含む客観的な視点から自己を問い直すことが不可欠です。
 今回、創立10周年の記念行事の一環として、国際フォーラムを企画したのも、この理由によります。国内外で「日本」について研究されている四人の著名な外国人研究者の皆さまをお迎えし、「世界の中の日本研究」のテーマで、語っていただくことになりました。外国の文化・社会を扱うことが多い研究科の教官や院生にとって、四人の先生がたは、自身をふりかえるための「鏡」「姿見」でもあると思います。日本について研究されている外国人の先生がたの研究内容、ご苦労、達成の歓び、将来に向けた願いを知ることは、われわれが気づいていなかった新しい事実、隠れた問題点、貴重な示唆を提示してくれるはずです。年ごとに多くの外国人スタッフや留学生をむかえつつある研究科にとっても、外国人研究者の問題は、けっして他人事ではありません。
今回のフォーラムを稔り多いものとし、その成果を、われわれが将来新しい地平を切り拓くときの参考として、おおいに活用できればと念願する次第です。

講演1 「アジアのポップ・カルチャー研究と日本」
ジョン・レント(テンプル大学)

 大衆文化が未開拓の領域だった1960年代半ば、私はアジアのマスコミ研究に着手した。この地域については、大衆文化研究にせよマスコミ研究にせよ、緒についていなかったのだ。しかし驚くほど研究材料に溢れた地域であった。日本には野球、漫画、デザイン、包装、玩具、インドには映画や巨大な掲示広告、フィリピンにはゴシップ誌やアメリカを真似たマスメディアなど枚挙に暇がなかったが、注目されることはなかった。
 40年間の学究生活を通じて、私は状況を改善すべく全力を傾けてきた。学生に研究を促し、論文や書物を著し、シンポジウムや学会を組織し、編著や研究誌を編んだりしてきた。困難な仕事だったが、多くの人々と意見や情報を交換して理解を深めることは、大きな歓びだった。私自身、新しい事実を発掘する考古学者のような気がしたものだ。
 70年代〜80年代、アジア大衆文化が活況を呈するようになった。研究者が育ち、大衆文化が学問的に分析されるようになったのだ。日本でも、過去20年間、特にこの5年ほど、漫画やアニメを扱う研究集団や研究誌などに大きな進展が見られた。海外でも日本の大衆文化研究が、学会、書物、カリキュラム、学位論文などで取り上げられ、重要性を増している。
 研究に困難は付きものだが、近年、資料館、データベース、人名録の充実で、かなりの改善が見られる。それでも困難は常につきまとう。調査・研究中の宿舎や研究上の支援体制の問題である。東北大学国際文化研究科で外国人の日本研究者に便宜を与える将来計画があると聞くが、ありがたいことだと思う。個人所蔵の大量の資料を分類整理し、アジア大衆文化の研究団体を組織し、専門誌を発刊し、研究のセンターを設けることが次の課題になるだろう。
大衆文化の研究はもはや砂漠ではない。オアシスが点在する場所になった。しかし、肥沃な森林を形成するには至っていない。まだまだ為すべきことは残っている。

講演2 「東北地方でのフィールドワーク−回顧の試み」
クネヒト・ペトロ(南山大学)

 未知の所を訪ね、出会ったことのない人々と会って話ができることから旅の満足感は得られる。さらに、旅とは人生の如きものだという人もいる。フィールドワークは人類学者にとって一種の旅だと見ていいが、色々な意味で普通の旅行とは異なっている。先ず、研究活動への第一歩であり、イニシエーションである。また、研究活動に欠かせない重要な経験というだけではなく、研究者の人生自体にも大きな影響を及ぼすものだ。調査中に出会った人々、見聞きしたことは、研究者のものの考え方と学問のあり方を形作るのに大きな役割を果たしている。
 旅の間に、不慣れな言語表現による誤解、不慣れな食べ物による食中たりのような不愉快な経験があっても、それはいずれ旅の思い出に昇華される。しかし、フィールドワーク中に同じ問題が起こったとしたら、対処方法は俄然変わってくる。長期滞在の研究者にとっては、このような経験と失敗はいずれ思い出になるとしても、それを考察し、分析して、起こった原因を探らなくてはならない。研究の貴重な材料となるからだ。辛くても、これらの経験は相手とその文化を理解するため試金石であり、見逃せない道標となる。こうした視点から自らの調査経験を振り返ってみたい。
 宮城県北部の村で調査を始めた時には、詳細な実施計画もない村落調査の新米だった。勿論、現地に入る前に一応文献研究は行なったが、村人の日常生活と人間関係に関する具体的な知識は皆無に等しかった。強いて言えば、村人の信仰に一番関心があり、この信仰とはどのようなものか、又、彼らの生活にどう息づいているかということを知りたいと思っていた。そのために、先ず年中行事を調べることにした。しかし、村の生活を基礎から学びたいというのが本音だった。
大学の指導教官と先輩の紹介を後ろ盾に自信を持って村に入った。これは役場への扉を開いてくれただけで、村人への道は閉ざされたままだった。こうした状況に思い悩んでいると、ある飲み会に招かれた。その晩の付き合いが村人に近付く出発点となった。酒の席で言われたことを当てにしないようにと注意され続けてきたことが嘘のように、その夜は大事な発見だった。生活の潤滑油である酒の面目躍如というところである。
 村人との付き合いが深まるに連れて、もとより余り明白ではなかった私の研究計画は有名無実となっていた。計画白体に縛られるより村人の話を聞くことに主眼を置くことで、少しずつ彼らの生活と考え方を味わえるようになり、自分もゆるゆると変わってくるのを感じていた。

講演3 「『平家物語』成立の研究とチェコ語訳『平家物語』誕生秘話−
国際的<国語学・国文学>研究の立場から」
カレル・フィアラ(福井県立大学)

 『平家物語』は歴史的な転換期を生きる人々のドラマを文学的に表した作品である。その生命力は、物語が数百年に亙って、多数の作者や改作者の尽力によって生成されたことから窺える。「天草版」を見ると、仏教の信者だけではなく、クリスチャンもこの作品の世界に魅せられた。
〈 古態の研究〉私の『平家物語』の研究は、古態をテクスト言語学法で求める試みから始まった。『平家物語』の異本数は200点以上に及ぶ。私の注目を引いたのは最古態で、多種多様の資料から編纂された異本一『長門本』と『延慶本』一に含まれた琵琶伴奏の「語り」の個所である。ほぼ同じ文章が、一貫した古態の「語り本」である『屋代本』・『平松家本』にも含まれるが、これらの「語り」の個所はいつごろ成立したのだろうか。
 琵琶伴奏の「語り」は『源氏物語』の成立以前から行われた。『保元物語』や『平治物語』も琵琶伴奏の「語り」の部分を含んでいる。真字体の『四部合戦状』・『源平闘争録』の中でも、「延慶本」の琵琶伴奏の「語り」の箇所は当然従来の仮名体から真字体に変換された形で現れるが、「南都本」では再改作がさらに進んで、「語り」の箇所は仮名体に再変換されるようである。すなわち、先に文体の整っていない「読み本」が成立して、後に「語り」の箇所は「語り本」に継承され、残りは同じ文体に統一されることによって、「語り本」が完成したと考えられる。
 〈翻訳〉古態研究の副産物として、私は『平家物語』をチェコ語訳し、傍注を加えた訳文の中でも原文の特徴を活かせるように努めた。例えば巻一・章段「殿上の闇討」では、平忠盛についての和歌がある。原文には「ただもりきたる」という句を織り込むことによって、読み人と夜を過ごした男性の名が「忠盛」であったことが暗示される。チェコ語で掛詞を用いることはできないが、句の冒頭音節を繋げ、全体から「タダモリ」の名が読み取れるように工夫した。過剰な説明を避け、自然な、さりげない表現によって、原文に近い効果を目指した。

講演4 「日本での半世紀をふりかえる」
ピーター・ミルワード(上智大学)

 私が1954年に日本に来た理由は、上智大学の日本の学生に英文学、殊にシェイクスピアを教えるためであった。日本論を勉強するためなどではなかった。しかし日本で教育する過程において、日本の文化・宗教・歴史・文学について、どの学生たちよりもよく知るようになった。それにもかかわらず、何一つの主題においても専門家と自称することはできないがノ。とりわけ1970年以降、私は、日本での生活のほとんどすべての側面における印象と感想について、数え切れないほどの記事と書物を著すよう依頼されてきた。そしてそのような要請は、私をして実にさまざまな方法でこの国に接近することを可能にしてくれた。なかでも日本への接近の2つの焦点は、私のもつ2つの職業であるカトリック神父と大学教授というもののなかに認められるだろう。前者において私は、イエス・キリストの福音に対し証言し、そして後者においては、シェイクスピアの戯曲を教える。にもかかわらず、これら2つのことがらを日本人に話す際、日本の背景では、イエス・キリストとシェイクスピアは日本人だったに違いないという無意識的な結果に到達した。私自身、過去50年で心と感情が日本人になっていたという理由から。やはり日本人について言及する際に重要なことは、イエス・キリストについてであろうとシェイクスピアについてであろうと、ニューマンの言う"heart to heart"、日本語でいう恋人たちの会話のような「以心伝心」的接近である。